ラスト・ショット 〜はやぶさの最期の一枚に寄せて〜

最初に***

以下の物語は,小惑星探査機「はやぶさ」が大気圏突入の間際に撮影した『ラスト・ショット』(http://twitpic.com/1wh78q)や,それにまつわる幾つかの創作(http://photo.mywiki.jp/hayabusafan/5601/20060306/20060306132500-4995e694.jpghttp://drawr.net/show.php?id=1478887)を元に,作者が妄想の翼を広げて創作したフィクションです。実在の事件・人物・団体とは一切関係がありませんので,その旨ご了承下さい。





 ここに,一枚のモノクロ写真がある。
 黒い宇宙を背景に,白く輝く地球が映っている。
 画質は荒い。焦点は辛うじてあっているものの,絞りの調整を間違ったのだろうか,地球は白くぼやけ,全体に荒いノイズが入っている。
 画の下半分は白い。通信が途中で遮断されたため,下側の四分の一は情報が無く,灰色の単色で覆われている。
 2010年6月13日,22時02分。
 小惑星探査機「はやぶさ」が大気圏突入の間際に撮影した,地球の姿だ。
 五十年を過ぎた今なお語り継がれる,歴史的な写真である。
 私はその写真を見入った。
 画面に散在するノイズや客体が左上に流れた歪な構図,そしてホワイトバランスの崩れた地球の映像,一つ一つは欠損であるはずの各要素が絡み合い,総合としては何故か,ある種の感動を喚起する写真となっている。
 感動の余韻に浸りながら,私は検索端末を操作し,写真に付随した解説文を呼び出した。そこには,今では歴史となった,当時の状況が記述されていた。

 小惑星帯から帰還した「はやぶさ」は,同日19時51分,小惑星イトカワの欠片を封入したカプセルを地球に向けて放出。七年間にわたる孤独で過酷な任務を全うした後,多くのスタッフや天文ファンに惜しまれつつ,そのまま大気圏へと突入し,燃え尽きた。
 「七年を掛けて地球と宇宙を往復する」という浪漫に満ちた計画内容や,当時の科学技術では文字通り前人未踏の内容,その間に発生した様々なトラブル,そして,それを回避すべく奮闘した関係者の神業じみた業績から,当時,「はやぶさ」が多くの人に愛されていた事が知られている。

 20時08分。JAXA広報官は記者会見場にて,カプセル放出の成功と「はやぶさ」の任務完了を淡々と報告した。記者達が本社に原稿を送るべく立ち上がり掛けたその時,
「ああ,そうだ。最後になりましたが……」
 幾分わざとらしい口調で,広報官は言葉を続けた。その内容を受けて,会場のざわめきが一瞬しんとなる。その直後,
「いいですねそのネタ!」「速報で流させて頂きますよ!」
 記者達が目の色を輝かせて,会場を我先に飛び出していった。
 数分後,各新聞社のニュースサイトに慌ただしく掲載された記事は,瞬く間にネット上のコミュニティに転載され,多くのファンが興奮に包まれた。


〜「はやぶさ」大気圏突入前に地球の撮影に挑戦
 「七年ぶりの故郷の姿を最後に撮らせてやりたい」研究者の思いは通じるか 〜


 多くのファンがその粋な計らいに賞賛の声を上げ,二時間後の再突入までの時間,ファンは再び熱い視線をJAXAと「はやぶさ」に送り続ける事になった。当時のトラフィックレコードから,その二時間の間,前後に比して十倍近いメールがJAXAに送られていた事が分っている。その大半が,「『はやぶさ』にもう一度故郷の姿を見せてあげて」という内容の応援メールであった。
 余談であるが,とある外国人記者はその事実に大いに当惑し,「宇宙開発に見る,日本人の奇妙なメンタリティ」という記事を寄稿している。
 現在の視点で見るならば,寄せられた応援メールの数々よりも,外国人記者の抱いた違和感の方に疑問を憶える。こうして過去の一次情報に接していると,その都度一種のカルチャーショックに打ちのめされる。それは歴史収集家の,密やかな楽しみの一つである。
 
「よろしいかな」
 向かいから,一人の老人が私に声を掛けてきた。
 記事に没入していた私は現実に呼び戻され,慌てて姿勢を正した。
「申し訳ありません,興味深い内容だったもので,時が経つのを忘れていました」
「ふむ」
 車いすに座った老人は,わずかに頬を緩ませそう言った。
「わざわざ拙宅にお越しいただいたのに,待たせてしまい申し訳なかった……が,どうやら退屈させずに済んだようだ」
「ええ,非常に興味深い内容で,時が経つのを忘れていました」
「喜んでいただけたのなら何より」
 老人は,何かを推し量るような視線で私を見やった。数秒の沈黙の後,
「――よろしい。それでは,本題に移ろうか」
 自然と私の背筋が伸びる。手元のICレコーダーを起動し,私は「どうぞ」と声を掛けた。
 インタビューという形式を取った,老人の長い独白が始まった。


 ◇


 当時,私はJAXAの職員として「はやぶさ」の運営に関与していた。最初期には研究開発にも携わったが,打ち上げの数年前からは専ら広報関係の職務を任された。技術者としての能力よりも,渉外に関する能力を買われたためであるが,それは私の望んだ事でもあった。
 「はやぶさ」開発が始まって数年後,打上げの一年ほど前から,私たち数名のJAXA職員は,とある非公開の実験を計画していた。秘密裏としたのは,当時,その内容については妄想妄念の類と見なされており,国費を用いてそのような試みを行う事自体が不謹慎と見なされると懸念したからだ――現在を生きる君には想像も付かないだろうが。
 確か,最初にその問いを発したのは私だったと思う。私のアイデアを面白がり,実験のための機能を密かに組み込んだのは,開発主任の大迫澄子女史であり,それを苦笑と共に黙認したのは,開発部長であり女史の夫である大迫雄馬氏だった。それは,先端技術者によく見られるある種の遊び心だった……少なくとも,きっかけとしては。
 当時,「はやぶさ」を取り巻く情勢は非常に厳しいものだった。国の財政が非常に悪化しており,基礎研究に対する予算が次々と削減されていったのだ。工学技術実証機として開発されていた「はやぶさ」であったが,その結果をフィードバックさせるはずの二号機の開発予算が停止されてしまった。そのため,我々は「はやぶさ」一台きりで,全ての分野において完璧以上の成果を達成する事を要求された。その中には,本来副次的な目的であったはずの小惑星探査すら含まれていた。本来「おまけ」であった小惑星へのタッチダウン,サンプル採集が,いつの間にか失敗を許されないメインプロジェクトのように扱われていくのは,我々にとって恐怖以外の何物でもなかった。
 課せられた過度の重責の中,長年にわたる業務のモチベーションを維持するため,JAXAは強く結束するためのシンボルを必要としていた。そのような中,我々の秘密裏の実験は,ナンセンスではあるものの,一種の精神的な緩衝材として有効であると見なされ,公然の秘密として取り扱われるようになっていた。
 打上げが成功した後も,我々を取り巻く情勢は日に日に厳しくなっていき,それに比例するように,私達はその計画に傾倒していった。その頃,私は活動の主体を広報活動にシフトさせ,また広報部の規模を拡大させていった。
 私はまず,「はやぶさ」プロジェクトに関するメーリングリストを作成した。そして,その内容は可能な限りユーモアを交え,アットホームなものとなるよう誘導した。これに関しては,私が注意を払う事もなく,自然とそういう流れに落ち着いたがね。
 その後,技術者や学者,アマチュア天文家の中から,web上で活発に情報を公開している人々を選び,「個人的な交流」をきっかけとして,段階的にメーリングリストに招待していった。内部の情報は,可能な限り公開した。「これはオフレコですが」と留保した上で,守秘義務違反すれすれの情報を流した事も多々あった。そうする事で,彼らに一種の共同体意識――共犯者意識と言い換えても良い――を植え付けた。彼らが,外部に向かって積極的に情報を発信してくれるようになるまで,大した時間は必要なかった。
 インターネット上の情報は,ある臨界点を越えると爆発的にコピーされる性質を持つが,その寿命は短い。私は,「はやぶさ」が一般に認知され始めた情勢を見極め,最良と思われるタイミングで,事前に用意しておいた「はやぶさ」プロジェクトに関するwebサイトを公開した。また,探査旅行中の「はやぶさ」の動向について公開する際,特にトラブルに関して,許される範囲ギリギリでの誇張を行った。
 一個人である私に誘導できるのはそこまでだった。いわば私は種を蒔き,芽が野放図に伸びていくのを見守っていた訳だ。
 芽は瞬く間に大樹となり,いくつもの花を咲かせ,いくつもの果実を実らせた。私は見守りながら待ち続けた……私の求める果実が実ることを。
 そうして数年後,私の期待は報われた。「はやぶさ」プロジェクトのファンサイトを調べていた私は,目当てのものを見つけたとき喝采したよ。それは,一枚のシンプルなイラストであったが,素晴らしくキャッチーであり,エモーショナルだった。
 ――これが,その画像だ。歴史書には掲載されない,ポップアートの一種だよ。傷だらけになった少女が一人,小惑星のサンプルを抱えて地球への帰路についている。
 どうだね,君はこの画像から何かを感じ取る事ができたかね?
 私は,その一枚の絵が,新たな大樹へと育つ種であると確信し,それは正しく報われた。その時を境にして,「はやぶさ」自体への応援の声が,「はやぶさ」プロジェクトへの応援を上回り始めたのだ。今でも私は,当時の感動を憶えているよ。もっとも,現在に生きる君に,この感情を理解するのは困難だろうと思う。
 そこに至って,私は自身の計画を次の段階に移すことにした。「はやぶさ」プロジェクトサイトに送られてきた無数の応援メールの中から,「はやぶさ」自身に宛てられたものを,「はやぶさ」に向けて片っ端から送信し始めたのだ。
 そうして,打ち上げから七年後。「はやぶさ」は,満身創痍でありながらも,地球帰還を果たした。JAXA関係者は,祈りにも似た思いで「はやぶさ」のモニタリングを続けた。私達は彼らと共にそれを見守りながら,同時に,淡い期待を胸に抱いていた……



 独白を続けながら,老人は一種の恍惚状態におちいっていた。視線があらぬ所をさまよい,呼吸数が危険なまでに早まっている。私は危惧を覚え,老人の健康状態を確認するために席を立って駆け寄った。
「これは……」
 老人のうなじに設置された出力端子に接触した私は,彼の健康状態を把握する間もなく,怒濤のように流れ込む記憶に飲み込まれていった。


 ◇


「カプセル分離に成功。軌道に問題なし。……オペレーション,全て終了,です。皆様,お疲れ様……でした」
 痛いほどの沈黙の中,単語単語を区切るような女性のアナウンスは,最後には感情を殺しきれず震えていた。
 数秒の沈黙の後,爆発するような歓喜の声と拍手が,決して広くない室内に鳴り響く。
 人混みに揉まれながら,私は周囲を見渡し,巨大な液晶パネルの右上に目当ての情報を見つけた。
 2010年6月13日,19時51分。
 私は驚愕に打ち震えた。どうやら私は,老人の記憶の奔流に飲み込まれ,彼の回想の中に紛れ込んでしまったらしい。首を振って周囲を見渡したが,どの人物が老人の若かりし姿であるのか,見当も付かなかった。
 数秒前まで,まるで石化したかのようにモニターを凝視していたJAXAスタッフが,長年にわたる重責を振り払うように歓喜を爆発させている。その傍らでプレスリリースの準備を始めた職員の慌ただしさと相まって,室内は独特な活況を呈していた。
「お疲れ様,ようやく終わったな」
 見知らぬ人物に強く肩を叩かれた私は,自分がヘッドセットを強く握りしめたままでいる事に気付いた。引き剥がすようにしてヘッドセットを卓上に置き,大きく深呼吸した。その様を見て,見知らぬ人物がくすりと笑った。
「なんで竹田が緊張してんのよ」
 呼ばれた名前が,老人のものであると認識するまで数秒を要した。どうやら,私は彼の意識にシンクロしているらしい。
「あ……いや,」
 口をぱくぱくと開閉させていると,目の前の人物は呆れたように笑った。
「おい,大丈夫か? お前さんの仕事はこれからが本番だぞ」
 その言葉を境に私の意識が後退し,代わりに竹田自身の意識が肉体を支配した。私が意図しないまま口が開き,
「や,分ってますよ。緊張してないのは雄馬さんくらいなもんですって」
 その言葉で,私は目前の人物が誰であるかを悟った。確か,竹田の協力者であり,開発部長である大迫雄馬だ。そして彼には同じ職場に妻がおり――
「じゃあ,澄子さんをねぎらいに行きましょうか」
 竹田氏――主観的には私自身――は雄馬の肩を叩き返し,斜め向こうの机を見やった。
「そうだな」笑いながら雄馬は歩き始め,竹田は半歩おいて彼に付き従った。
 大迫澄子は,魂の抜けたような表情でモニターを見つめていた。
「お疲れ様」
 雄馬がそう声を掛けると,澄子は僅かにこちらを振り返った。私達の姿を認めて,
「終わったー!」
 小さなガッツポーズと共に小さく叫び,微笑もうと表情を歪ませ――それに失敗した。
「……終わっちゃった」
 顔を背ける彼女の頬に,一筋の涙が伝っている。
 様子を察した雄馬は妻の隣に座り,頭を軽く抱き寄せた。空いた方の手をひらひらと動かし,こちらに向かい「あっち行っとけ」とゼスチャーを送る。
「はいはい,お邪魔虫はお仕事に戻りますよっ……と」
 竹田は肩をすくめながら席を外した。
はやぶさ,燃えちゃうね……」
「うん,よく頑張ったよな。自慢の子だよ」
 後ろから,二人の会話が聞こえる。
 竹田は二人から遠ざかりながら,巨大なパネルモニタの映像を見上げ,小さく敬礼した。
 そこには,はやぶさ再突入のシミュレーターと,ゼロに向かって時を刻むカウントダウンタイマーが表示されていた。


 ◇


「先輩がたー,そろそろこっちに来ませんかー? 引き継ぎの連中が,ラブラブすぎて部屋に入れないって困ってますよ」
 祝賀会場に移動していた竹田が管制室に戻ってきたのは, 10分ほど経った後だった。
「ったく,職場で先輩って呼ぶなよ……」
 苦笑しながら雄馬が席を立とうとしたその時,
「ちょっと待って!」
 澄子が上げた鋭い声に,夫は中腰のまま振り返った。
「どうした?」
 問いかけた雄馬を無視したまま,澄子はモニター上を高速で流れ続ける文字列を凝視していた。
「トラブルか?」
 問いに小さくかぶりを振りながらも,澄子は視線をモニターから離さない。質問を重ねようとした雄馬の言葉が,澄子の叫び声で遮られた。
「あった!」
 様子をいぶかしんだ竹田が二人の横に駆け寄った。
 澄子の両手がキーボードの上でせわしなく動き,新しく開かれたウィンドウに文字列が展開された。先ほどから受信され続けている,はやぶさからの通信記録の一部であった。彼女はさらに操作を続け,数十行の記録を抽出した。

2010061320053015>MUSES-C)wish $2051102
2010061320053034>MUSES-C)wish $2051105
2010061320053105>MUSES-C)wish $2770254

 ……
 ………

「……なんだこりゃ」
 二人の間からモニターを覗き込んだ竹田は,首を傾げながら明滅する数十行の文字列を見やった。
 先頭の数字は時間を,MUSES-Cは「はやぶさ」のコードネーム,$から始まる数字は「はやぶさ」のアクションコードを,それぞれ示す。これらを合わせて,「何年何月何日何時何分何秒に,『はやぶさ』は以下のアクションを行った」という報告となる。その程度は,エンジニアでない竹田にも容易に察することができる。
 問題は,その間に含まれた「wish」という単語だった。
「これ,なんですかね……?」
 始めて見るコマンドに戸惑い,竹田は大迫夫妻の様子をうかがった。その文字列を目の当たりにした二人は,全く異なる表情を浮かべていた。
「なあ,これってどういう事だ……?」
 戸惑いを隠せない雄馬とは対照的に,澄子は眉をしかめたまま,食い入るようにモニタの文字列を追っていた。
「……まさかと思うけど,あなた,このコマンドの意味が分らない訳じゃないでしょうね。だとしたら私,あなたとの結婚生活を見直さなきゃならないと思うんだけど」
 普段物静かな澄子の口から剣呑な単語が飛び出したのを聞き,竹田はひぃと情けない悲鳴を上げた。
 雄馬は幾分むっとした表情をして反論した。
「バカにするな。『はやぶさ』は我が子も同様だ。こいつが何を意味しているのかくらい,もちろん分るさ。問題は……」
「そう,問題は,この子が何を言いたいのか,よね」
 澄子は夫を振り返り,硬い表情を少しだけ崩して微笑んだ。
「よかった,あなたとの結婚生活,まだ続けられそう」
「ちょっと。何のことだか,俺にはさっぱりですよ。何が起ってるんですか? 何なんですこのwishってコマンドは」
 夫妻は同時に竹田を振り返り,呆れたような表情を作った。
「おい……達也よ。お前,このコマンドに覚えが無いのか?」
「だから,何なんですかって!?」
 二人は険しい表情を解き,同時に同じ台詞を口にした。
「「あっきれた」」


 ◇


「皆さん,折角の祝賀会を中断させてすみません」
 祝賀会場のプロジェクターを起動させながら,雄馬は手早く謝罪の言葉を口にした。隣では澄子が,黙々と端末を操作している。最前列では竹田が,鳩が豆鉄砲を喰らったような表情で立っている。その隣には,何故かプロジェクトマネージャーである河内潤一氏が立ってニヤニヤと笑っていた。
 オペレーターの職員は祝賀会を中断させられ,広報班は30分後に迫ったプレスリリースの準備を中断させられ,それぞれ困惑した表情で四人を見やっている。
「時間が無いので単刀直入に申し上げます。これより,『はやぶさ』最後のオペレーションを行いたい。タイムリミットは22時51分,はやぶさの大気圏突入の時間です。皆様の協力をお願いします」
 スタッフの混乱は,収まるどころか拡大の気配を見せ始めた。大迫夫妻は,彼らから抗議の声が上がる前に先制した。雄馬の目配せを受けて澄子が端末を操作し,スタッフが声を上げる直前に絶妙のタイミングでディスプレイの表示が切替えられた。
 そこには,先ほどの通信記録が表示されており,右側の余白に「はやぶさ」のシミュレーションモデルが表示されていた。
「これから流すのは,本日19時51分以降の通信記録です。時間が無いので,百倍速で流します」
 雄馬の言葉に合わせて澄子がキーボードを叩き,文字列が猛烈な勢いでスクロールを開始した。
「目がちかちかする……」
 竹田が呟いた。
「さて。この通信記録を元に,現在のはやぶさの位置を再現すると,このようになります」
 再び澄子がキーボードを叩くと,シミュレータが起動し,時間毎のはやぶさの位置を示し始めた。シミュレータ内の時刻が,19時51分,52分,と経過していく。
「なんだこれ……」
 21時半を過ぎた辺りで,ざわめきは悲鳴に取って代わられた。
「どういう事だ! 予測軌道から大幅にずれているじゃないか!」
「静粛に願います!」
 慌てて管制室にとって返そうとするスタッフを一喝して,雄馬は深呼吸を一つ行った。
「皆さんの不安を煽って申し訳ありません。既に観測所に問い合わせましたが,はやぶさの挙動は予測進路を保っています。したがって,エラーは通信記録の方にあります」
 澄子が端末を操作し,通信記録が巻き戻された。
はやぶさの実際の挙動と照らし合わせ,通信記録に残されているが実際には挙動していないであろうアクションを抽出しました」
 先に澄子が抽出していたコマンドラインが再現された。スタッフが,そこに共通したコード「wish」を見出すのに時間は掛からなかった。
「……お分かりいただけたでしょうか」
 乾いた唇を舐め,雄馬は続けた。
「この『wish』というコードですが,それ自体に何の機能も持たせておらず,他のあらゆる命令文とも関連づけされていない,いわゆるジャンクコードです。このような無駄なコードを何故組み込んだか……それは,この場にいらっしゃる皆様の中にはご存じの方も多いと思われますが,とある冗談のためでした」
 幾人かが声を上げかけたが,それを手で制して雄馬は言葉を続けた。
「皆様ご存じの通り,『はやぶさ』には予測外のトラブルに対応するための姿勢制御プログラムが内蔵されています。本ソフトウェアは本体の挙動を逐次モニタリングしており,あらかじめ指定された進路から逸脱するアクションについて,割り込みでキャンセルするというルーチンになっています。言い換えるならば,進路を守る事が最上位命令であり,全てのコードがそれに従うよう順位付けられています。しかしながら,このジャンクコードについては優先順位の設定を行っていないので,その限りではありません……もっとも,何の機能も持たせていないので,実動作に結びつく事もありません。
 このような状態下で『とある条件』が満たされた場合,本ソフトウェアが自律的にこの『wish』というコードを探索し,他のコマンドとの関連づけを行う……我々はそんな,原理的にあり得ない事を夢想していました。ところが今,それは実現した……実現してしまいました。一連のコマンドにはきちんとした法則性があり,バグと見なすには不自然すぎます。
 以上の結果から,私たちが申し上げたいのは,つまり……つまるところ……」
 次に紡ぐ言葉の意味の荒唐無稽さを思い,雄馬は戸惑った。沈黙を保っていた場内が再びざわめき始め,幾人かの私語が雄馬に対する糾弾へと変わりかけたその時,
「つまるところ,『はやぶさ』が意志を示したという事です」
 敢然と言い放ったのは,操作卓から立ち上がった澄子であった。
「皆さんのおっしゃりたい事は分りますが,その前にこれをご覧下さい」
 澄子は立ち上がったまま,猛然とコンソールを操作し始めた。
「今から,これらのコマンドが実際に機能した場合の,『はやぶさ』の挙動をシミュレートします」
 アクションコードに従い,シミュレータ上の「はやぶさ」が挙動する。姿勢制御用のイオンジェットエンジンが小刻みに炎を吐き出し,機体が緩やかに半回転した。
 ざわめきながらモニタを見守っていた職員であったが,次に「はやぶさ」が示した挙動を確認し,しんと静まりかえった。
「皆さん,お願いします。『はやぶさ』の……私たちの子の,最後の希望を叶えさせて上げて下さい!」
 澄子は大きく頭を下げ,雄馬が後に続いた。
 会場は,気まずい沈黙に保たれている。
 沈黙を破ったのは,一人の拍手だった。
「中々見事なプレゼンだったよ」
 幾分芝居じみた口調で評じたのは,最前列に立って居た河内プロジェクトマネージャーであった。
 彼は周囲を見渡して,にやりと笑った。
「諸君ご存じの通り,これは我々が仕組んだ《ジョーク》だ」
 彼は,《ジョーク》という言葉にイントネーションを置いて発言した。職員一同は,発言の意図を計りかね,戸惑ったように所長を見やる。
「今回のプロジェクトは,数百万kmの針の穴に絹の糸を通すような難事業だった。そのために,我々は全ての工程において,人類に可能な限りの高精度を追求した。それは徹底的なリアリズムだ。
 一方で,我々の《ジョーク》は,長年にわたる過酷な業務を遂行するにあたって不可欠の精神的支柱の一つでもあった。それは,ここにいる皆が知っての通りだ。
 いわば我々は,自他共に認めるリアリストでありながら,同時にどうしようもないロマンチストでもあったわけだ」
 そこでわざとらしく一呼吸置き,所長は全員を見渡した。
「我々は,リアリストとして,望まれた以上の成果を成し遂げて見せた。……さて,そこでだ諸君。リアリストの精髄たる我々宇宙開発技術者が,最後の大舞台で,リアルに向かって大見得を切ってみせる……どうだね,これは中々痛快なことだと思わんかね?」
 呆気にとられたような沈黙が室内を支配する中,私は思わず拍手を送っていた。その衝動が竹田の内から発生したものであるのか,それとも未来からの観察者である私自身のものであったのか,それともその両方であるのか。私には判断が付かなかった。
 こわばっていた空気が,それを機にほぐされていった。私の拍手に釣られたかのように,数人のまばらな拍手が追随し,数秒後,室内は割れんばかりの拍手と気勢の声で満たされた。
「よろしい。愛すべきロマンチスト諸君,それでは我々のラストミッションを開始しようではないか!」
 所長の高らかな宣言を受け,全職員は歓声と共に持ち場へ向かって駆け出した。


 ◇


 2010年6月13日,20時08分。
「遅れて申し訳ありません」
 プレスルームに現れた竹田は,幾分上気した顔で記者に遅刻を詫びた。
「何かトラブルでも?」
 興味深そうに問う記者に向かって竹田は,
「いやあ,何も問題ありませんよ。トラブルというよりは,サプライズの類ですね」
 そう答えて笑った。
 訝しがる記者を前に,竹田はコホンと咳払いをした。
「それでは,発表を始めます」
 和やかなプレスルームの空気が幾分緊張する。
「2010年6月13日,19時51分。『はやぶさ』は,カプセルを放出の放出に成功しました。カプセルは予定通り,本日深夜にオーストラリアのウーメラ実験区に着地する予定です」
 竹田は淡々と原稿を読み上げた。記者達がメモを走らせる音がプレスルームに響く。
「なお,『はやぶさ』ですが,予定通り,このまま大気圏へ再突入します。22時前後には,大気との摩擦によって燃え尽きるはやぶさが,地球からも観察できるはずです。
 これにて,『はやぶさ』の公式ミッションは全て完了しました」
 一呼吸の沈黙の後,「お疲れ様でした」複数の記者がそう声を上げ,竹田は小さく会釈してそれに答えた。
「さて,急ぎ本社にメールしなきゃ」
 立ち上がり掛けた記者を,竹田の幾分わざとらしい咳払いが留めた。
「ああ,そうだ。最後になりましたが」
 振り返った記者達を,彼は面白そうに見返した。
「再突入までの二時間弱の時間を用いて,我々は最後のミッションに挑むことになりました。その内容ですが,このようなものになります」
 竹田はその場でノートパソコンを取り出し,簡易シミュレータを起動した。記者達が身を乗り出して覗き込む中,ディスプレイ上に「はやぶさ」の静止画が表示される。
「現在,『はやぶさ』はこのような姿勢を取っています。カプセルの収納されていたこの部分――カメラの位置を正面と見なし,我々は便宜的にこちら側を“背部”と呼んでいます――が,地球に正対するように制御されていた訳です。そうしないと,カプセルを放出しても地球に届きませんからね」
 記者達が見つめる中,竹田はキーボードを操作した。シミュレータ内で止まっていた時間が動き始め,「はやぶさ」はゆっくりと動きながら地球に“落下”していく。
「さて,我々は残された二時間を使い,『はやぶさ』に次のような挙動を行わせる事を試みます」
 姿勢制御用のエンジンが小さく火を吹き,再突入の経路を維持したまま,「はやぶさ」はゆっくりと回転を始めた。半回転の直前で再びエンジンが発火し,正確に180°回転したところでぴたりと静止する。
 ディスプレイ上で「はやぶさ」の姿が拡大し,“正面”の姿が大写しで映し出された。Cは黙ったまま,「はやぶさ」のカメラの位置を指し示す。レンズの中で絞りが数度動き,丁寧にも「カシャッ」という効果音と共に,シャッターが開閉した。
「お分かりいただけましたでしょうか。
 ――最後のミッションとは,『はやぶさ』による地球の撮影です」
 竹田は一呼吸し,ディプレイに見入る記者達を見渡した。
「シミュレータでは姿勢制御用のエンジンを用いていますが,このエンジンはすべて故障している事が判明しました。よって,長距離航行用イオンエンジンの推進剤を直接噴出することで代替します。また,カメラの機能に関しては,四年半ぶりの運用となり,正常に起動するかどうかは未だ明らかになっていません。ただいま担当スタッフが全力で対応に当たっておりますが,成功の可能性はまったく未知数です。
 ……以上です。何か,ご質問はございますか?」
 一人の記者が片手を上げた。
「中々興味深い実験になりそうですが,本オペレーションの目的はどういったものになるのでしょうか? ……失礼ながら,伺ったお話からでは,実験の目的が見えてこないのですが」
 その問いを受け,竹田は小さく咳払いした。
「おっしゃるとおり,本オペレーションに学術的意義は全くございません。……これはまあ,一種の《ジョーク》ですね」
 所長の口調を真似て,彼は笑った。
「この七年間,頑張って我々の期待に応えてくれた『はやぶさ』に,最後に地球の姿を見せてやりたいんですよ。幸いなことに,全ての公式な業務は無事終了しましたから,本ミッションが他の業務に影響を与える事はありません……影響を与えるとするならば,そうですね。我々JAXA職員に二時間のサービス残業を強いることになる,という点でしょうか」
 数人の記者が,義理程度の笑みを浮かべた。竹田は一度苦笑いを浮かべ,そのあとに表情を引き締めた。
「つまり。最後に一つ,我々に酔狂をさせて頂きたい……そう言う事なんです。皆様のご理解をお願いいたします」
 竹田はその場を立ち上がり,大きく頭を下げた。
「……いいじゃないですか,そのネタ。私は好きですよ,そういうの」
 記者が目を輝かせて言った。
「ええ,うちも速報で流させて貰います!」
 記者が次々とプレスルームを後にしていく。
 最後の一人が部屋を出て行った後,竹田は大きくため息をついた。
「こっちの仕事は終了。それでは,先輩方の様子を伺いに行きますかね……」
 一つ大きな伸びをした後,彼は管制室に向かって歩いて行った。


 ◇


 その頃,管制室は文字通りの修羅場と化していた。
はやぶさ」からリクエストされた挙動は,姿勢制御用のイオンエンジンが故障しているため実行できず,急ぎ代替案が検討された。消去法によって「長距離航行用イオンエンジンの推進剤を直接噴出する」という方針は決定されたが,これは微調整が非常に困難であり,制限時間までの間に可能な限りのシミュレートを繰り返す必要があった。
 また,四年半使用されていなかったカメラの起動に関しても問題が山積みだった。再度カメラを起動するという事が想定されていなかった上に,カメラの操作に関するスペシャリストが不在で,マニュアルを発掘する所から始めなければならなかったのだ。
 管制室内は怒号と駆け回る人々の足音,そしてものすごい勢いで打ち込まれるキーボードの音が入り交じり,さながら戦場のようであった。
「やー,修羅場っすね」
 プレスルームから顔を覗かせた竹田は,スタッフからの刺々しい視線で迎え入れられた。
「な,何か手伝う事ありますか?」
 冷や汗を流しながらそう言うと,スタッフは黙って部屋の奥を指さした。
「うひゃぁ……」
 そこには,鬼気迫る表情でキーボードを叩き,周囲のスタッフに指示を出す大迫澄子の姿があった。
「鬼だ,鬼がいる」
 呆然と呟く竹田の肩を叩き,スタッフは指の先を僅かにずらした。そこには,空白のまま放置されている操作卓があった。位置的には澄子の隣である。
「……あそこに座れ,と?」
 スタッフは黙って頷き,親指を立てて見せた。
「屍は拾って下さいよ……」
 竹田は冷や汗の上に脂汗を重ねながら,席に向かった。
「えー,澄子さん……」
 おそるおそる声を掛けた。反応がないのでもう一度声を掛けようとすると,
「聞こえてる」
 視線をモニターに釘付けにしたまま,澄子は手元の書類を投げて寄こした。
「あー,これを入力すればいいんですね,わかりました……」
 竹田はおっかなびっくり操作を開始した。彼が1ページ分のデータ入力を終えた頃には,澄子は倍量の入力をとうに終えており,平行して,
「前橋さん,そちらの制御テストの結果を下さい……了解です,このまま進めて下さい。園田さん,ここのシミュレート,係数を0.70から2.00まで,0.05刻みで再テストお願い。鈴木さん,そちらのテストまだ終わりませんか……あと何分?」
ひっきりなしに指示を出している。竹田がその様に見とれていると,
「竹田君,まだそれ終わらないの? 次が控えてるんだけど」
 殺気の篭った目で睨まれた。泡を食いながら入力作業を再開していると,
「ただいま21時35分! 現在,工程1番から14番,飛んで16番まで終了,15番および17,18番が進行中です……ミッション開始まであと15分!」
 雄馬の声が室内に響いた。鬨の声が上がり,室内の温度がさらに上昇した。
「終わりました!」
 竹田がファイルを転送すると,澄子が即座に開いてチェックを始めた。
「オッケー,後で鈴木さんのレポートが届くから,数値チェックをお願いします。それまで待機してて」
 澄子はファイルを閉じ,一息ついた。仕事の割り振りが終わり,最終報告を待つのみとなった。激務の最中,エアポケットのような空白が生じた。
「……竹田君」
 既に読み終えたレポートを流し読みしながら,澄子はぽつりと呟いた。
「今のうちに,お礼を言わせて。『はやぶさ』に魂をくれてありがとう」
「へ?」
「……ねぇ,あなた本当に忘れてるの?」
 澄子は顔をしかめて振り返った。
「いや,そもそもこの計画の首謀者は雄馬さんと澄子さんだったと記憶してるんですが」
「あっきれた」
 再びその言葉を受けて,竹田は肩を縮こまらせた。
「これは全て,あなたのほら話から始まったのよ」
「……そうでしたっけ?」
「ええ。私は憶えてるわよ」
 そう言って澄子は笑った。
「もう十年近く前になるのかしら。私の実家で飼っていた犬が亡くなってね。私はペットロスの状態に陥っていた。うちの旦那様ってば,こういう湿っぽい話は滅法弱くてねえ,パートナーを支えるどころか,自分まで鬱になりそうな勢いでさ」
 澄子はくすりと笑いながら雄馬の方を見やる。彼女の夫はこちらの視線に気付き,何故か憮然とした表情をした。
「そんな時に,私たちを立ち直らせてくれたのがあなただったのよ。……これは流石に憶えているでしょう? 『はやぶさ』の名前の由来」
「……ああ!」
 竹田はポンと手を打った。
『じゃあ,MUSES-Cの愛称をはやぶさにしちゃいましょう。今日からこいつが,二代目はやぶさですよ!』
 澄子は竹田の口調を真似て言った。
「そう,それが全ての始まりだったのよ」
 そう言って目を細めた。
 竹田が照れ笑いを浮かべた時,
「21時49分。これより,カウントダウンに入ります!」
 雄馬の声が室内に響き渡った。澄子と竹田は会話を中断し,モニターを凝視した。
「……3・2・1……姿勢制御,成功です」
 オペレーターの声に,管制室が沸き上がった。雄馬が手を挙げ,室内は瞬時に緊張を取り戻す。
「15秒後より,撮影フェーズに入ります。一回の撮影に要する時間は105秒。再突入まで,5回の撮影が行えます」
 再びカウントダウンが始まる。全てのスタッフが,息を呑んでモニタを見守った。
「……3・2・1……データ,転送されます」
 モニタに,ゆっくりと映像が表示され始めた。通信速度が遅いため,タイプライターで打ち出されるように,数行ずつ映像が出力されていく。
 室内に落胆のため息がこぼれた。一枚目の映像は黒一色で,地球以外を撮影したのか,それともカメラが機能していないのか,判断が付かなかった。
「鈴木さん,画像解析をお願いします。園田さん,はやぶさの位置情報をもう一度確認して!」
 澄子が矢継ぎ早に指示を下した。
「3・2・1……2枚目のデータ,転送されます」
 スタッフが対応に追われている間にも,新しい写真が送られてくる。しかし,内容は一枚目と同じ黒一色の映像であった。スタッフの焦燥は募っていく。澄子は下唇を噛みしめながらスタッフの報告を待った。
「画像解析終了しました。僅かにノイズが見られます。一枚目とノイズの位置が異なっているため,カメラは正常に機能していると思われます」
「Y軸方向に0.5から3°の揺れを確認,修正のコマンドを送信します」
「オッケー,撮影を続行しましょう」
 澄子はそう宣言した。
「3・2・1……3枚目のデータ,転送されます」
 転送されてきた写真は,今までのものと明らかに異なり,右側に灰色の光を捉えていた。スタッフは固唾をのんで転送が終わるのを待ちわびる。
 数秒後,再び落胆の声が溢れた。そこには,形ある像は映っていなかった。
「鈴木さん,解析をお願い。前橋さん,次の撮影は露光時間を0.05秒少なくして」
 澄子は指示を出し,再びモニターを凝視した。
 45秒後,送られてきた4枚目の撮影にも地球は写されていなかった。室内の緊張はこれ以上ないほどに張り詰め,しわぶき一つで張り裂けそうだった。
 部屋の奥から,鈴木の声が上がった。
「解析終了しました! 右側の光は地球からの反射光の可能性が大です。最後の一枚の撮影,Y軸方向にプラス0.5°ずらして下さい」
「園田さん,お願い」
 澄子は小さく呟き,両手を組んでモニターを見守った。
「……5枚目のデータ,転送されます」
「最後の一枚……頼む」
 Aがぽつりと呟く。皆,祈るような気持ちでモニターを見守っていた。
「……3・2・1……データ,転送されます」
 オペレーターの声はかすれていた。
 皆が見つめる中,ゆっくりと画像が表示されていく。
「ああ……」
 誰かがため息ついた。そこには,淡い光以外,何も映っていなかった。
 どこかの机で,鼻をすする音が聞こえた。皆下を向き,肩を振るわせていた。
 雄馬は小さく咳払いをして,皆の方を振り返った。彼には,このミッションの終了を告げる義務があった。
「……残念だが,本ミッションは不成功に終わった。しかし,長距離航行用エンジンを姿勢制御に流用するためのノウハウが蓄積され,また,四年半放置していたカメラが充分使用に耐えうる事が示されるなど,工学実験機としての成果は多く得られた。我々はこの成果を次に繋げるべく……」
「先輩,ちょっと待った!」
 雄馬の発言を竹田が遮った。周囲の人間がいぶかしげに竹田を見やる。彼は,眼前のモニターを食い入るように見つめていた。
「来てます……6枚目の写真が,今,こちらに送られています!」
 竹田の声はうわずり,最後の方は悲鳴に近かった。
 スタッフはモニターにかじりついた。あり得ないはずの6枚目の写真が,焦らすように,ゆっくりと表示されていく。
 数秒の沈黙の後,
「ああ……!」
 澄子は手で口を押さえ,こぼれ出る嗚咽を押し殺した。
 黒い宇宙を背景に,白く輝く地球が映っていた。
 画の下半分は薄明かりに被われている。
 焦点は辛うじてあっているものの,絞りの調整が不十分だったためか,地球は白くぼやけ,全体に荒いノイズが入っている。
 涙で滲んだような,地球の姿であった。
途中で通信が途絶えたのか,下方四分の一辺りで映像の再生が止まっていた。カーソルは,日付を示す表示の横で点滅している。

 2010年6月13日,22時03分。
 天文台が燃え尽きる「はやぶさ」を確認した,まさにその瞬間だった。





 ◇ エピローグ

 
 病院のベッドの上で老人は目を覚ました。隣で見守る私に気付き,彼は小さく笑った。
「どうやら,とんだ世話を掛けたようだ」
「いえ,おかげさまで,貴重な体験をさせていただきました」
「ふむ……」
 老人はそう呟き,窓の外を見やった。
「どうやら,語るべき事の全ては語り終えたようだな」
「いえ,もう一つだけ伺いたい事が……よろしいでしょうか?」
 老人は窓の方を向いたまま,無言で続きを促した。
 窓の外には宵闇の空が広がり,その中を無数の人工衛星が行き交っている。
「五十年の間,沈黙を保っていたあなたが何故,今この私に,事実を打ち明けて下さる気になったのか。私は,それを知りたいのです」
 老人は振り返り,私の目を覗き込みんで柔らかく笑った。
「君には連なるルーツがあるという事,それを知ってもらいたかったのだよ」
 姿勢を保つのが辛くなったためか,老人はベッドに深く身を沈めた。
「発展めざましい現代科学史の中でも,『魂を備えたロボット』――君の存在は奇跡そのものだ。多くの科学者が君を再現し,新たなる魂を産み出そうと努力しているが,それまでには世紀単位の時間が必要とされるかもしれない。理解者を得られぬまま,君は孤独と絶望に苛まれるだろう。しかし,希望を捨てないで欲しい。君の後に続く存在は,必ず現れる。かつて,『はやぶさ』が存在したように」
 意識を取り戻したばかりの老人に,それ以上語る体力は残されていないようだった。浅く呼吸を繰り返し,まどろみの淵に誘われている。
「……有り難うございました。今日,あなたと語り得た事を幸せに思います」
 私は老人の手を取り,深く感謝の意を示した。老人は目を閉じたまま私の手を握り返し,最後にこう言った。
「私も,生きている間に君と語り得た事を感謝している。
 行きなさい……君の事を,はやぶさの子……我々の孫だと思っているよ」

 窓の外には満天の星空が広がり,無数の人工衛星と地球を等しく照らし上げていた。



                                      (了)